なでしこリーグが今年、30周年を迎える。1989年、日本女子サッカーリーグ(愛称:JLSL)の創設以降、時代の波にもまれながらも、選手をはじめ指導者や多くの関係者の情熱がリーグを支え続けてきた。節目の年に、情熱をもってリーグを支えてきた「紡(つむ)ぎ人」の想いを綴る。
第1回
田村 貢
Mitsugu TAMURA
日本女子サッカーリーグ専務理事
『リーグの魅力増へ いざ改革のとき』
今年、なでしこリーグが30年の節目の年を迎えます。多くの方々のご尽力や想いがあって続いた30年であり、また選手やスタッフが築き上げてきた30年でもあります。リーグに関わったすべての方に感謝したいと思っています。
この30年、リーグは紆余曲折がありました。バブル経済崩壊後の景気低迷の影響でサポート企業が撤退し、リーグ存続の危機もありました。それでも「リーグを何とかしよう」「もっと良いものにしよう」「男子に負けないように」「火を消さないように」といういろんな方々の強い想いがあったからこそ、今があるのです。
私が直接なでしこリーグと関わりを持ったのは、アルビレックス新潟で広報をしていた2002年、当時男子がまだJ2の頃に女子チーム(アルビレックス新潟レディース)を立ち上げたときが最初です。そこから約15年、"アルビレッジ"という、男子トップチームもユースも、そして女子も一緒に練習できる環境が整い、色んな地域から選手が集まって新潟への愛を持ってプレーしてくれた。その積み重ねの中でチームは1部にも上がり、皇后杯決勝まで何度も進み、強豪チームを脅かせるまでに成長してくれました。
その間、私はどうしたら観客数を増やせるか、女子の競技人口を増やせるかを考えてきました。今後ますます少子高齢化が進む中で、女性がサッカーをして、たとえなでしこリーグの選手になれなかったとしても、我が子にサッカーをやらせたり、一緒になでしこリーグを見に行ったりとつながっていくはず。そのために、突き詰めて考えるとやはり各々のチームが独自の路線で強化を図り、結果を出し、魅力を増やすことが大事だという思いを強く持ちました。
その考えの下で強化を進めるさなか、男子トップチームが結果を出せなかった責任からクラブを離れることになった2016年末に、なでしこリーグに声を掛けていただいた。日本サッカー全体を考えたときに、女子サッカーの重要性を認識していたからこそ、自分にとっても新たなチャレンジだと思いました。
スポーツに限らず、何か物事を達成するためには一人の力ではできません。アルビレックス時代、社長を任されたときに、社員同士横のつながりを持たせて情報共有をさせ、自分たちで考えて問題を解決するような組織づくりに力を入れてきました。私はリーダーシップよりもフォロワーシップのマネジメントを大切にしています。なでしこリーグでも、リーグに携わる人たちが成長しないと意味がない。その成長を助けるのが私の仕事だと思っています。
今はリーグに明確な目標、ビジョンが見えないからこそ、誰にも伝わっていないのでしょう。「いつまでにこうなるよ」「こういう目標を達成するよ」というものが必要です。30周年の節目の今年はいろんなチャレンジを考えていますし、ちょうどリーグが誕生した9月9日という記念の日に、明確なメッセージを発信することを予定しています。制作を始めたばかりの「30年史」もそんなメッセージのうちの一つです。ぜひ楽しみにお待ちください。
My Best Scene 思い出の1シーン
2011年、女子ワールドカップ・ドイツで世界の頂点に立ったなでしこジャパンのメンバーにアルビレックス新潟レディースの上尾野辺めぐみと阪口夢穂も参加していました。クラブ経営に携わる者として彼女たちを誇りに思いましたしなでしこリーグに携わっていて良かったと思えるシーンでしたね。
(プロフィール)
たむら・みつぐ
1962年4月13日生まれ、新潟県出身。会計事務所に勤務していた1995年にアルビレックス新潟(当時アルビレオ新潟)の立ち上げに関わり、クラブ広報を経て2009年に代表取締役社長に就任して8年間、クラブ経営を牽引した。2017年2月1日付で現職に就任。社会人時代はプレーヤーとして天皇杯に4度出場経験も持つ。