なでしこリーグが今年、30周年を迎える。1989年、日本女子サッカーリーグ(愛称:JLSL)の創設以降、時代の波にもまれながらも、選手をはじめ指導者や多くの関係者の情熱がリーグを支え続けてきた。情熱をもってリーグを支えてきた「紡ぎ人」の想いを綴る本連載の第2回は、結婚・出産を経て現役復帰し、「ママさんボランチ」の愛称でも親しまれた宮本ともみさんの登場だ。
第2回
宮本 ともみ
U-17日本女子代表コーチ
『後輩たちの 選択肢を増やせた』
なでしこリーグ30周年、おめでとうございます。私が兄の影響で小学校1年でサッカーを始め、物心ついて「もっとサッカーがうまくなりたい」と思い始めた頃にはもう、前身である日本女子サッカーリーグは始まっていました。私が生まれ育った神奈川県の相模原市は女子サッカーが盛んなところで、所属した相模原SCにも仲の良い友達が何人もいたので、地元にチームが存在していた点では他の地域より恵まれた環境と言えると思います。
中学、高校とサッカーを続けるにあたり、ただひたすら「サッカーがうまくなりたい」という思いだけで、目標と言えば、日本代表ではなく、トップのリーグ、つまりなでしこリーグが最高の目標でした。日本代表というチームがあること自体、若い頃は知りませんでしたからね。
伊賀FCくノ一でプレーしていた2002年に結婚し、2005年に出産を経験しました。1年以上のブランクを経て、リーグ初の「ママさんプレーヤー」として現役に復帰するのですが、その時は真剣に悩んだし、苦労もたくさんありました。プレーヤーとして「もっとうまくなりたい」という気持ちと母親として「もっと子供のそばにいてあげたい」という思いの板挟み。仮に現役復帰できたとして、チームメイトが快く迎え入れてくれるのかどうかすごく不安もありました。心が揺れながらも、最後は「とりあえず一度やってみよう」と決断し、現役復帰の道を選んだんです。何か問題が生じて現役続行が困難になったとしても、それはその時に考えればいい。チャレンジせずに諦めた方が後悔するだろう、と。結果的にはチームメイトが受け入れてくれて、それだけじゃなくクラブや家族もさまざまなサポートをしてくれたことで、その後7年も現役生活を続けることができました。その間、なでしこジャパンでも、それまで規定のなかった、合宿や遠征でのベビーシッターの制度を取り入れていただきました。そういう意味で、私のチャレンジが後輩たちの選択肢を増やすきっかけになったことが、私がサッカーを続けてきたことの功績の一つかなとうれしく思っています。余談ですが、中学生になった息子が今もサッカーを続けていることも、出産してサッカーを止めなかったからかもしれませんね。
昨年からリトルなでしこ(U-17日本女子代表)世代のコーチとして若い選手たちを指導しています。私が同世代だった頃と比べて、今の子たちは本当にテクニックがあって驚かされます。それもリーグ30年の歴史の中で、女子サッカーを取り巻く環境が向上してきた賜物でしょう。しかし、環境に恵まれた裏返しか、「絶対に勝つ」という気持ちが私たちの頃と比べて足りないと思うのも事実です。世界の女子サッカーの進化が叫ばれる昨今ですが、日本のテクニックや組織力は今も世界に誇れるレベル。そこに勝利への執念が加われば、日本はもう一つ上に行けると信じています。私自身、小さいころから誰よりも負けず嫌いだったと自覚がありますから(笑)、指導者として負けず嫌いな選手を一人でも多く増やして、日本の女子サッカーに貢献していきたいと思います。
(思い出の1シーン)
当時プリマハムだった1999年シーズン、ベレーザとのチャンピオンシップを制してリーグ優勝したことが一番の思い出です。それまでは先輩にただ引っ張ってもらっていただけでしたが、この年は自身3年目で、ボランチとしてチームを牽引し勝利に貢献できたという実感がありました。その中で優勝できたことは自信につながり充実感がありました。
(プロフィール)
宮本ともみ(みやもと・ともみ)
1978年12月31日生まれ、神奈川県出身。相模原SCから高校卒業後に当時LリーグのプリマハムFCくノ一(現・伊賀FC)に入団。以降、リーグでは伊賀FCを中心に1516年間プレーし2度のベストイレブン受賞。日本女子代表(なでしこジャパン)でも3度の女子W杯や、2004年アテネ五輪にも出場した。結婚、出産を経て現役に復帰し「ママさんなでしこ」の愛称でも知られた。2012年に現役を引退し、現在、高田短大女子サッカー部監督、U-17日本女子代表コーチ。