日本で女性がサッカーをプレーすることが珍しかった時代から、女子サッカーリーグ開幕、女子ワールドカップ優勝、女子プロサッカーリーグ創設、また、女子サッカーを取り巻く環境、そして社会情勢は大きく変化してきました。
年内にかけて全22回の連載を予定しています。激動の日本女子サッカーの歴史を振り返ります。
(毎週水曜更新)
第1回全日本女子選手権 優勝 FCジンナン
2「日本の女子サッカー」
「Jリーグができるまで、日本にサッカーはなかった」と言った人がいました。もちろんそれは大きな間違いです。それと同じように、日本の女子サッカーも、1989年に日本女子サッカーリーグ(現在のなでしこリーグ)が誕生していきなり始まったわけではありません。その前にも、長い歴史がありました。
日本最初の女子サッカーチームが、1966に兵庫県にできた2つのチームであることはよく知られています。ひとつは神戸市灘区の福住小学校の6年生女子26人でつくられた「福住女子サッカースポーツ少年団」、もうひとつが西宮市の神戸女学院中等部の3年生15人によってつくられたチームでした。
この2チームは、翌1967年の3月19日に神戸市灘区、福住小学校のすぐ近くにある王子競技場で対戦しました。これがいま知られている日本の女子サッカー最古の「試合」です。主審と2人の副審(当時は「線審」と言いました)も、女性が務めました。
しかしそれが日本の女子サッカーの始まりというわけでもありません。最近になって、約100年前の大正時代(1912~1926年)に、日本のあちこちで女性がサッカーをしていたという資料が発見され、注目されています。
大正時代は女性の職業が増え、それまで家庭に閉じ込められていた日本女性が社会に進出した時代でした。それにともなって、女性の社会的地位の向上を望む運動も始まります。「男性に負けない」という女性の意識の向上が、スポーツにも波及していきます。
小学校では男の子にまじってサッカーボールを追う女の子が見られるようになります。そして「女学校」(現在の中学・高校の年代に当たります)では、体育の授業でサッカーに取り組む女学校も出てきたのです。社会進出や将来への希望が、少女や女性たちにそれ以前の時代にはない積極性を与えていた時代でした。
ただ、昭和時代、戦争に向かうころになると、こうした社会の雰囲気は消えてしまいます。そして戦後の混乱を経て、女性たちが「男性も楽しんでいるサッカーを私たちもプレーしたい」と思い、それを行動に移せるようになるのが、世界的に「ウーマンリブ」と呼ばれる女性解放運動が起こる1960年代から1970年代にかけてなのです。
1970年代、関東と関西では次々と女子チームが誕生し、盛んに試合が行われるようになります。当時は、「女がサッカーなんかやるものではない」と思っていた男性が圧倒的に多く、女子選手たちは好奇の目にさらされながらも、一生懸命に練習に励み、さまざまな試合をこなしながら仲間を増やしていきました。
そして1979年、日本サッカー協会が女子チームの登録を受け付け始めます。皆さんは驚くかもしれませんが、1921年に誕生してから半世紀以上、日本サッカー協会は「男子サッカーのためだけの団体」だったのです。最初の年に登録されたのは、52チーム,選手の総数は919人でした。
その年度末、1980年3月には、第1回の全日本女子選手権(現在の皇后杯)が行われます。しかし日本サッカー協会に登録されたといっても、女子の活動は大会から日本代表まで、日本サッカー協会を頼るわけにはいかず、すべて「日本女子サッカー連盟」という団体が自分で資金を調達して行わなければならないという状況でした。
全日本女子選手権の開始とともに女子チームがどんどん増え、大会のレベルも急速に上がっていきます。そして10年後の1989年、「日本女子サッカー連盟」はその役割を終えて発展的に解消し、日本サッカー協会が女子サッカーの活動もすべて責任をもって行うことになります。1979年に登録が始まったといってもそれは形だけのことで、10年を経てようやく女子サッカーは本当に「日本サッカーの一員」になったのです。
そしてこの年に「日本女子サッカーリーグ」、今日のなでしこリーグが誕生するのです。
文=大住良之(サッカージャーナリスト)
写真=ベースボール・マガジン社
(つづく)