日本で女性がサッカーをプレーすることが珍しかった時代から、女子サッカーリーグ開幕、女子ワールドカップ優勝、女子プロサッカーリーグ創設、また、女子サッカーを取り巻く環境、そして社会情勢は大きく変化してきました。
年内にかけて全22回の連載を予定しています。激動の日本女子サッカーの歴史を振り返ります。
(毎週水曜更新)
堀田哲爾さん
3「なでしこリーグ誕生に貢献した人びと」
世の中が動くのは、自然の流れだけによるではありません。ひとにぎりの人びとの情熱や超人的な努力によって、その後の歴史が大きく変わることがあります。現在のなでしこリーグ、1989年の日本女子サッカーリーグの誕生も、そういう出来事だったと、私は思っています。
歴史を動かしたのは、当時日本サッカー協会の理事をつとめていた故・堀田哲爾(ほった・てつじ)さん、そして「日産レディース」監督を務めていた早野宏史さん、読売サッカークラブベレーザの監督だった竹本一彦さん、横浜で女子サッカーチームを運営していた黒滝等さんたちでした。
堀田さんは中学生時代からサッカーに取り組んで、静岡大学を卒業後、1956年に清水市(現在は静岡市清水区)の小学校の先生になりました。そして自分の学校の生徒たちにサッカーを教えるだけでなく、市内の他の小学校に呼びかけてチームをつくらせ、清水を「サッカーのまち」へと生まれ変わらせていきます。そして1970年、35歳の堀田さんは日本サッカー協会が主催した「第1回サッカーコーチングスクール」を受講します。
このスクールは、前年にデットマール・クラマーさん(1964年のオリンピックで日本を指導したドイツ人コーチ)を主任コーチに迎えて日本で開催された国際サッカー連盟のコーチングスクールの内容を日本中のコーチに伝えるためのもので、非常にハイレベルな内容でした。有名選手もいる受講生のなかで、小学校の先生は堀田さんただひとりでした。
しかし堀田さんが他の受講者と何より違ったのは、スクールで学んだ知識を自分のチームに生かすより、広く静岡県全体に広げようとしたことでした。1971年、自身が務める小学校で毎週月曜日の夜に「静岡県コーチングコース」を開講し、学んだことを広く伝えたのです。全県から強豪高校の指導者などが集まるなか、会場となった清水市からは全23の小学校から1人ずつ指導者を参加させました。これが、その後、清水を日本一のサッカーどころにする大きな力になりました。
堀田さんは、女子サッカーの発展にも力を注ぎ、応援していました。きっかけは小学校の先生になったころ、男の子たちだけを相手にサッカーを教えていたら、女の子たちが「私たちもやりたい」と希望を伝えてきたことにありました。その女の子たちが取り組む姿を見て、サッカーを楽しむ心に男女の区別はないと知ったのです。
やがて、堀田さんが務めていた学校の女子選手たちが中学校に進んで「清水第八」という女子チームをつくり、1980年3月に行われた第1回全日本女子選手権に出場して準優勝。翌年からは「7年連続優勝」という快挙を成し遂げます。
しかし1988年3月に行われた第9回大会では新興の読売サッカークラブ・ベレーザに敗れて準優勝。堀田さんは「このままではずっと勝てなくなる」と危機感を抱きます。
当時の女子サッカーの強豪は関東(東京)と関西(大阪、兵庫)に集中し、清水と三重県の「伊賀上野くノ一」は、地域で孤立していたからです。強豪女子チームとの対戦は年に数回のトーナメントだけ。それでは日本全国で女子サッカーが健全に発展していくことはできない...。それが日本女子サッカーリーグ設立の最初のモチベーションでした。
「女子サッカーの全国リーグなど、まだ早すぎる」という反対意見が多いなか、堀田さんを後押ししたのは、1990年に中国の北京で行われるアジア競技大会で女子サッカーが正式種目になったことでした。「日本女子代表チームの強化のためにも全国リーグが必要」と周囲を説き、ついに説き伏せたのです。
堀田さんの熱意に、早野さんや竹本さんらが協力を申し出ます。そして黒滝さんが事務局運営を引き受けて、3人で大変な実務をこなしました。
竹本さんが「ブルドーザーのような人だった」という堀田さんの情熱と行動力、そして堀田さんをサポートし、短期間でさまざまな課題をクリアして開幕にこぎつけた早野さん、竹本さん、黒滝さんたちの献身的な働きがなければ、まだ発展途上の時期にあった日本の女子サッカーに「全国リーグ」が誕生することはなかったでしょう。
文=大住良之(サッカージャーナリスト)
写真=ベースボール・マガジン社
(つづく)