日本で女性がサッカーをプレーすることが珍しかった時代から、女子サッカーリーグ開幕、女子ワールドカップ優勝、女子プロサッカーリーグ創設、また、女子サッカーを取り巻く環境、そして社会情勢は大きく変化してきました。
年内にかけて全22回の連載を予定しています。激動の日本女子サッカーの歴史を振り返ります。
(毎週水曜更新)
周 台英(しゅう・たいえい) 選手
1989年9月から1990年1月にかけて行われた第1回日本女子サッカーリーグ(現在のなでしこリーグ)。初代チャンピオンに輝いたのは清水FCでした。
開幕戦で読売ベレーザに敗れた後、第2節は日産FCと3-3の引き分け。スタートは苦しみましたが、節を追うごとに好守ともに改善され、残りのシーズンは安定した試合運びで白星を重ね、年が明けて1990年1月28日の最終節で再びベレーザとの対決を迎えます。この試合で勝てば、勝ち点では並ぶものの、得失点差で上回るという際どい状況でした。
日本女子リーグのスタートに当たって、静岡県から手を挙げたのが清水FCでした。清水には全日本女子選手権の第2回大会から7連覇と無敵を誇った「清水第八」がありましたが、全国リーグに参加するのは資金面で無理がありました。そこで1986年12月に誕生し、またたく間に全日本女子選手権に出場するまでになっていた「清水FC女子」が地元の大手流通企業である「鈴与」の資金援助を受け、リーグに参加することにしたのです。
リーグ参加に当たって、清水第八から4人の選手が移籍します。FW半田悦子、MF山田千愛、MF木岡二葉、DF山口小百合。4人とも20代の前半でしたが、すべて「7連覇」の中心メンバーで、日本女子代表でも好守両面で中核となる経験豊富な選手たちでした。しかし清水FCの他の選手の大半は高校生と中学生。百戦錬磨の選手を並べたベレーザに対抗するためには、さらに思い切った補強が必要でした。外国籍選手の獲得です。
当時の日本のサッカーは「Jリーグ前夜」の時期にありました。まだサッカー熱は燃え上がっていませんでしたが、男子の日本サッカーリーグにはブラジルを中心に数多くの外国籍選手が在籍し、チームの強化に大きな影響を与えていました。「女子リーグにも」というのは、自然な考え方でした。
選ばれたのが、チャイニーズタイペイ(台湾)代表のFW周台英(しゅう・たいえい)でした。当時27歳。ドイツのクラブでプレーしていたこのストライカーを獲得したのです。
チャイニーズタイペイは、香港とともにアジアで最も早く女子サッカーが盛んになった国で、1970年代には2回もアジア・チャンピオンにもなっています。周台英はパワフルななかに高い技術とスピードと優れた得点感覚を兼ね備えた国際クラスの選手でした。
1989年11月から1990年1月にかけて行われた「後期」のリーグで、半田、木岡、そして周台英を軸とする清水FCの攻撃が爆発します。田崎真珠神戸FCとプリマハムくノ一にともに4-1で連勝。新光クレールには8-0、そして前期は3-3の引き分けに終わった日産FCにも5-0で快勝し、得失点差で上回ってベレーザとの決戦を迎えるのです。
試合はベレーザが攻勢をかけますが、清水は山口を中心に体を張って守り、前半18分、半田のパスを受けた木岡が先制点。ベレーザも後半12分にCKから高倉麻子が決めて同点に追いつきます。引き分けならベレーザの優勝です。
しかしこの試合にかけた清水の集中力は衰えません。同点とされたわずか3分後、FKを得た清水は木岡がゴール前に送ると、飛び込んだ山口が体ごとぶつけるような闘志あふれるヘディングでゴールに突き刺して勝ち越します。そしてそのまま2-1で逃げ切って「初代チャンピオン」の栄誉に輝いたのです。
清水とベレーザは、ともに8勝1分け1敗、勝ち点17(当時の勝ち点は勝利に2でした)。優勝の決め手は、10試合で38得点を記録した清水の攻撃力でした。パワフルなプレーで攻撃を牽引し、12得点を記録して「得点女王」となった周台英が一躍注目されることになります。そして日本女子サッカーリーグに、外国籍選手が続々と加入する時代を導くのです。
文=大住良之(サッカージャーナリスト)
写真=ベースボール・マガジン社
(つづく)