日本で女性がサッカーをプレーすることが珍しかった時代から、女子サッカーリーグ開幕、女子ワールドカップ優勝、女子プロサッカーリーグ創設、また、女子サッカーを取り巻く環境、そして社会情勢は大きく変化してきました。
年内にかけて全22回の連載を予定しています。激動の日本女子サッカーの歴史を振り返ります。
(毎週水曜更新)
高倉 麻子 選手(前 なでしこジャパン(日本女子代表)監督)
1989年9月から1990年1月にかけて行われた第1回の日本女子サッカーリーグ(現在のなでしこリーグ)の最終戦清水FCに敗れて「初代女王」の座を逃し、奮起したのが「読売サッカークラブ女子ベレーザ」でした。
1990年4月から1991年1月にかけて行われた第2回リーグは、前年と同じ6チームで戦われましたが、前年の2回戦総当たりから3回戦総当たり、シーズン全15節と、試合数が1.5倍に増えました。そのなかで、ベレーザは14勝1分けという圧倒的な成績で初優勝を飾ります。この年から「鈴与清水FCラブリーレディース」の名称となった前年女王と1試合引き分けた以外はすべて勝ち、その清水に勝ち点7(今日の勝ち点方式でいえば11)もの差をつけての優勝でした。
MVPに輝いたのは、16ゴールを挙げて得点女王にもなった野田朱美。キャプテンでもあるこの野田を中心に、高倉麻子、手塚貴子、本田美登里、松永知子など日本代表選手を並べる布陣にスキはありませんでした。この5人は9月に北京で行われたアジア大会でも活躍。優勝した中国には力の差を見せつけられましたが、強豪の北朝鮮と引き分けて銀メダルを獲得し、無理に無理を重ねて日本女子サッカーリーグを設立した人びとを喜ばせました。
ベレーザは、1981年、男子の日本サッカーリーグの強豪になりつつあった読売サッカークラブの相川亮一監督が自ら立ち上げたチームです。企業でも学校でもないチームは選手の募集からしなければなりませんでしたが、東京西部の「よみうりランド」内に専用のトレーニンググラウンドをもつという強みもあり、2年目に中学1年生の野田が加入、この年に監督を引き継いだ竹本一彦さんの指導でぐんぐん力をつけました。そして1984年から1988年まで東京都女子サッカーリーグで5連覇、1987年度(大会実施は1988年3月)の全日本女子選手権では、7連覇の「清水第八」を下して初の全日本女子チャンピオンとなります。
それだけに、1989年に始まった日本女子リーグの初年度で清水FCに優勝をさらわれたのは相当悔しかったに違いありません。第2回リーグで優勝すると、10チームに拡大された1991年度の第3回リーグも16勝2分けの無敗で連覇。この年には、中学1年生の澤穂希がリーグにデビューします。さらに翌年の第4回リーグも16勝2分け。3シーズン、51試合無敗という大記録を打ち立てます。1993年度の第5回リーグでは開幕戦で鈴与清水に敗れるという波乱がありましたが、後期は全勝して4連覇を達成します。
このころ、日本女子サッカーリーグは外国籍選手が急増し、なかにはワールドクラスの選手もいて急激にレベルアップしていました。大企業がプロのようなチーム運営をするチームや、勝利ボーナスを出すチームも現れていました。そのなかで、4連覇の後、ベレーザはしばらく優勝から遠ざかることになります。しかしベレーザがリーグの主役の座からおりることはありませんでした。
ベレーザを支えたのは「育成」でした。1989年にいち早く育成チームの「メニーナ」をスタートさせ、中学生から高校生を対象に才能のある選手を選び抜いて徹底的に鍛えるという活動を継続します。これは、すでに男子チームで成功を収めていた活動でもありましたが、出来上がった選手を集めるのではなく、少女時代から時間をかけて育てていくという活動は貴重で、後には、なでしこジャパンの半数近くをこの育成チーム出身選手が占める状況も生まれます。
1989年から2020年まで、「日本の女子トップリーグ」の地位にあった「日本女子サッカーリーグ~なでしこリーグ」の32シーズンで、ベレーザは実に優勝17回、準優勝も12回という圧倒的な成績を残します。
極端な表現に聞こえるかもしれませんが、「トップランナー」の地位を守り続けたベレーザの努力と、それを追い、上回ろうとする他のチームの努力が、なでしこリーグを形づくり、日本の女子サッカーの発展を支えてきたと言うことができるのではないでしょうか。
文=大住良之(サッカージャーナリスト)
写真=ベースボール・マガジン社
(つづく)