日本で女性がサッカーをプレーすることが珍しかった時代から、女子サッカーリーグ開幕、女子ワールドカップ優勝、女子プロサッカーリーグ創設、また、女子サッカーを取り巻く環境、そして社会情勢は大きく変化してきました。
年内にかけて全22回の連載を予定しています。激動の日本女子サッカーの歴史を振り返ります。
(毎週水曜更新)
シャーメイン・フーパー 選手(元カナダ代表)
第2回の1990年度から第4回の1993年度まで「読売ベレーザ」が3連覇を飾り、51戦無敗という大記録をつくった日本女子サッカーリーグ(現在のなでしこリーグ)。しかしその間に、日本のサッカーを取り巻く状況は、大きく変化していました。Jリーグの誕生です。
正式にリーグ戦が始まるのは1993年。しかし1990年ごろから「日本にもようやくプロサッカーができる」とメディアが騒ぎ始めます。そして1992年、最初の公式戦であるナビスコカップの開催と日本代表チームの大躍進(アジアカップ優勝)によって、サッカーへの関心が、日本全国で爆発的に高まったのです。
多くの企業がサッカーに興味をもった結果、女子サッカーチームをもとうという企業が続出します。そのひとつが日興證券でした。サッカーを愛する岩崎琢弥社長が主導して1990年に千葉県につくった「日興證券ドリームレディース」は、元日本女子代表監督の鈴木良平監督の下に優秀な選手を集め、またたく間に強豪となります。そして創立1シーズン目の終わり、1991年の3月には、全日本女子選手権で優勝を飾ってしまいます。ともにPK戦での勝利でしたが、準々決勝ではベレーザを、そして決勝では「鈴与清水ラブリーレディース」を下しての優勝は、周囲を驚かせました。
そして1991年、3シーズン目を迎えた日本女子サッカーリーグは、この日興證券のほか、「旭国際バニーズ女子サッカー部」(大阪)、「松下電器レディースサッカークラブ・バンビーナ」(大阪)、そして「フジタ天台サッカークラブ・マーキュリー」(神奈川)の計4チームを加え、10チームで開催されることになります。
1990年代のはじめ、世界の女子サッカーはまだ恵まれない時代でした。1991年に第1回の女子ワールドカップが中国で開催され、アメリカが圧倒的な強さを見せて優勝しましたが、そのアメリカにも全国的なリーグはなく、代表選手たちは母校の大学でコーチをしながら個人練習に励むという状況でした。欧州の国ぐににはクラブも全国リーグもありましたが、資金面はまったく恵まれていませんでした。
アマチュアながら、大企業に支えられて仕事を保証され、練習環境も良い日本の女子リーグは、当時、世界で最も「豊かなリーグ」だったのです。その結果、世界から優秀な選手が続々と日本のクラブに移籍します。その背景には、第1回リーグで得点王となり、清水FCを優勝に導いたチャイニーズタイペイ代表FW周台英がもたらした強い印象がありました。
「外国籍選手ラッシュ」は1991年の第3回リーグから始まり、どんどんエスカレートしていきます。1992年には、日興證券がノルウェー代表のFWリンダ・メダレンとDFグン・ニイボルグの加入を発表して大きな話題となります。2人とも前年の女子ワールドカップで準優勝を飾ったノルウェーのレギュラーメンバーで、なかでもメダレンは得点3位、最優秀選手表彰でも3位となった世界的なスターでした。メダレンは最初のシーズンに17ゴールを記録して得点女王となます。そして1994年の第6回リーグでは、「プリマハムFCくノ一」のカナダ代表FWシャーメイン・フーパーが18試合で24ゴールというとてつもない新記録で得点女王となります。
Jリーグの「ブーム」は1993から1994年にかけてピークを迎えますが、日本女子サッカーリーグもその勢いに引っぱられます。1994年の9月にはリーグの呼称を「L・リーグ」にすると発表、これは2004年に「なでしこリーグ」と変えられるまで使われます。
続いて公式イメージソングの「OH OH OH We are the Winners」も発表されます。人気アイドル酒井法子がメインボーカルを務め、リーグの10クラブからそれぞれ1選手が出てバックコーラスとなって、翌年2月に発売されました。
この公式イメージソングに続くように、各クラブがそれぞれのイメージソングをつくって発売、ベレーザは和田アキ子、日興證券は早見優、「TOKYO SHIDAX LSC(1993年に新光FCクレールから改称)」はマルシアなど、当時の人気歌手・タレントが顔をそろえ、大きな話題になりました。
しかしそうしたまばゆいばかりの話題の一方、1993年末には「日産FCレディース」が廃部を決定します。東京における女子サッカーの草分けのチームであり、1979年度の第1回全日本女子選手権で優勝を飾った「FCジンナン」を引き継いだチームの消滅は、この後に続くL・リーグの試練の時代を予感させるものでした。
文=大住良之(サッカージャーナリスト)
写真=ベースボール・マガジン社
(つづく)