連載コラム

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2021年10月05日

なでしこリーグの歴史を知ろう 第10回「春の足音」

日本で女性がサッカーをプレーすることが珍しかった時代から、女子サッカーリーグ開幕、女子ワールドカップ優勝、女子プロサッカーリーグ創設、また、女子サッカーを取り巻く環境、そして社会情勢は大きく変化してきました。
年内にかけて全22回の連載を予定しています。激動の日本女子サッカーの歴史を振り返ります。
(毎週水曜更新)

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酒井 與惠 選手

 不況によってクラブを支えていた企業の多くが撤退したため、2000年からL・リーグ(現在のなでしこリーグ)は東西に分けてのリーグと、その後の上位リーグ、下位リーグという形となりました。遠征費の負担を減らすためでした。1989年に始まり、一時は世界的なスターも活躍したリーグだったのですが、このころには、リーグの存続を危ぶむ声もあり、とにかくリーグを存続させようと考えた末の大会方式でした。
 入場料も取らず、ときには練習グラウンドのようなところで、一般からの注目などまったくないなかで、選手たちは懸命にプレーしました。いまでは信じられないかもしれませんが、このころは、「え~! 女の子もサッカーなんてするの?」という人が圧倒的に多い時代だったのです。
 そんななか、リーグをリードしたのが「日テレ・ベレーザ」でした。1994年から1997年までサポートしてくれた流通大手の西友が離れ、資金難に苦しんだクラブでしたが、Jリーグの強豪ヴェルディが使う練習場があり、男子のプロ選手のプレーを間近に見たり一流の指導者の指導を受けるという好環境自体がなくなったわけではありませんでした。そして何よりもこのクラブの強さの源泉は、育成チーム「メニーナ」にありました。
 この連載の第5回でも紹介しましたが、1989年にスタートさせて10年、メニーナから続々と好選手が育ち、ベレーザを支えるようになっていたのです。ベレーザは2000年に7シーズンぶりの優勝を飾ります。最優秀選手に選ばれた原歩、得点女王の小林弥生だけでなく、ベストイレブンに選ばれた中地舞、酒井與惠、小林弥生はすべてメニーナ出身選手でした。このほか、伊藤香菜子、大野忍、荒川恵理子など、ベレーザは育成チーム出身選手を中心に、この年から3連覇を飾るのです。
 こうした選手たちは、続々と日本代表にデビュー、日本の女子サッカーの大きな歴史の変わり目となる2004年のアテネ・オリンピックでは、代表候補選手25人のうち8人がメニーナ出身の選手でした。「育成」こそ、「冬の時代」を終わらせ、「春の足音」を呼び込む力だったのです。
 この当時、もうひとつ「育成」で大きな成果を残していたのが、神奈川県の「横須賀シーガルズ」というクラブでした。現在なでしこリーグ1部で活躍する「ニッパツ横浜FCシーガルズ」の前身です。当時は神奈川県リーグや関東リーグでプレーしていましたが、クラブ代表の森雅夫さんの方針で中学生年代の指導に力を入れ、亀田勝昭監督の熱意あふれる指導で近賀ゆかり、山本恵美子、矢野喬子など、日本代表の中心となる選手が何人も育ちました。L・リーグでは、近賀はベレーザで活躍し、山本は「田崎ペルーレFC」で攻撃の中心となり、矢野は大学でのプレーを経て2007年からなでしこリーグの「浦和レッズレディース」で長く活躍しました。
 2000年に9チームの東西リーグという形で再スタートを切ったL・リーグは、2001年には静岡県の「清水第八スポーツクラブ」(現在東海リーグの清水第八プレアデス)が加わって10チームとなり、2001年には埼玉県の「A・Sエルフェン狭山FC」(現在WEリーグのちふれASエルフェン埼玉)が加わって11チームに、さらに2003年には、「大原学園JaSRA女子サッカークラブ」(現在のWEリーグAC長野パルセイロ・レディース)と「岡山湯郷Belle」(現在なでしこリーグ2部)が加わり、13チームにまで増えます。そして2004年には「アルビレックス新潟レディース」(現在WEリーグ)が加わることが決まり、L・リーグは年間を通じての全国リーグに戻し、「1部(L1)8チーム」、「2部(L2)という初めての「2部制」を敷くことを決めるのです。
 まさに、温かい日差しのなか、確実に「春の足音」が聞こえてきたのです。

文=大住良之(サッカージャーナリスト)
写真=ベースボール・マガジン社

(つづく)

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