連載コラム

このページを共有する
  • ツイートする
  • シェアする
  • ブックマーク
  • LINEで送る

2021年12月01日

なでしこリーグの歴史を知ろう 第18回「東日本大震災となでしこジャパンの快挙」

日本で女性がサッカーをプレーすることが珍しかった時代から、女子サッカーリーグ開幕、女子ワールドカップ優勝、女子プロサッカーリーグ創設、また、女子サッカーを取り巻く環境、そして社会情勢は大きく変化してきました。
年内にかけて全22回の連載を予定しています。激動の日本女子サッカーの歴史を振り返ります。
(毎週水曜更新)

©JFA.png

なでしこジャパン2011FIFA女子ワールドカップドイツ優勝祝賀パーティー@都内ホテル(2011/12/27)

 2011年3月11日の午後、東北地方の太平洋沖でマグニチュード(M)9.0という大地震が発生しました。誰もが経験したことのない大きな揺れだけでなく、場所によっては高さ10メートルを超す大津波が東北地方の太平洋岸一帯を襲い、さらにその両者が原因で東京電力の福島第一原子力発電所で事故が起こって、震災全体で1万8000人を超す死者・行方不明者が出るという大災害となりました。
 この年の「なでしこリーグ」は4月3日に開幕することになっていました。しかし大震災は東北地方だけでなく東日本全体の電力供給や交通に大きな影響を与えたため、開幕の延期を余儀なくされました。何よりも大きな影響を受けたのが、1部の強豪に成長しつつあった「東京電力女子サッカー部マリーゼ」でした。
 このチームは、宮城県で活動していた「YKK AP東北女子サッカー部」を2004年に東京電力に移管、福島県太平洋岸の楢葉町・広野町に1997年に誕生したナショナルトレーニングセンターの「Jヴィレッジ」を中心に活動していました。大地震の当日、チームは宮崎県でキャンプ中だったので無事でしたが、Jヴィレッジが原発事故の対応拠点となったため、その後のサッカー活動はまったくできなくなります。4月11日には東京電力が原発事故対策に全力を注ぐためマリーゼなどスポーツチームの「活動一時中止」を発表、そのため、4月29日に開幕することになったなでしこリーグは、本来の数より1チーム少ない9チームで優勝を争うことになったのです。
 選手たちの多くは他チームに「一時移籍」してサッカーを続けました。そして日本サッカー協会やなでしこリーグなどの努力により、この年の秋にはJリーグのベガルタ仙台が女子チームを立ち上げてなでしこリーグの2部に当たる「チャレンジリーグ」に参加することが決まり、2012年には、「マリーゼ」の多くの選手が「ベガルタ仙台レディース」でプレーすることになります。
 この年の「チャレンジリーグ」は、東西(EASTとWEST)に分かれてリーグ戦を行いましたが、「EAST」には宮城県の「常磐木学園高校サッカー部」、福島県の「JFAアカデミー福島」という被災地のチームがあり、こちらも小さくない影響を受けました。常磐木学園は4月10日に行われた「スフィーダ世田谷」とのホーム開幕戦を静岡県磐田市の「ゆめりあ」で開催しなければならず、JFAアカデミーは、活動拠点を静岡県御殿場市に移したため、以後そこでホームゲームを開催しました。
 東日本大震災は、物的・人的に大きな被害を残しましたが、それ以上に、先が見えない復興、原発事故処理、さらに電力危機などで、この年の日本は、震災後、何カ月間も暗い空気に包まれていました。そこに希望の光をさしたのは、女子サッカーでした。なでしこジャパンの快挙、FIFA女子ワールドカップ優勝です。
 ドイツで開催された大会に1回から6大会連続出場を果たしたなでしこジャパンは、準々決勝で優勝候補の一角だった地元ドイツをFW丸山桂里奈(2009年までマリーゼのエースでした)のゴールで下すと、準決勝ではスウェーデンに3-1で快勝。日本時間で7月18日(月)早朝に行われたアメリカとの決勝戦は、「海の日」の休日だったこともあり、フジテレビ系で全国中継された放送が21.8%という高い視聴率を示しました。
 試合はアメリカにリードされるたびになでしこジャパンがくらいつき、追いつくというスリリングな展開。1-2とリードされて迎えた延長後半12分(残り3分)に宮間あやの左CKに合わせてニアポスト前に走った澤穂希がジャンプしながら右足アウトサイドでボールをとらえて叩き込むという劇的なゴールでPK戦にもつれ込みます。そしてPK戦ではGK海堀あゆみがアメリカの2本のキックを止め、最後は熊谷紗希がゴール左上に突き刺して見事優勝を決めたのです。
 日本中の誰もが、心に強く響くものを感じました。そしてどんなに苦しい状況にあっても自分自身と仲間を信じ、力を合わせて、しかもフェアに戦うなでしこジャパンの姿に、日々震災の苦みと戦う自分自身を重ね合わせ、大きな勇気を与えられました。日本のサッカーはことしで協会創立100年を迎えましたが、このときのなでしこジャパンの優勝ほど、日本の社会に大きなインパクトを与えたものはありません。
 そして当然、大会後にはなでしこリーグに注目が集まります。澤や海堀などこのときのなでしこジャパンに7人もの選手を送り込んだ「INAC神戸レオネッサ」は、ワールドカップ後のホームゲームで平均2万人に近いファンを集めました。この年のリーグ平均入場者数は2796人。なでしこリーグは、新しい飛躍の時代を迎えるのです。

文=大住良之(サッカージャーナリスト)
写真=JFA

(つづく)

このページを共有する
  • ツイートする
  • シェアする
  • ブックマーク
  • LINEで送る