「女子サッカーのまち」を掲げる大和市は神奈川県の中央にあります。新宿から、渋谷から、横浜からも電車で1時間以内のベッドタウンです。元なでしこジャパン(日本女子代表)の小野寺志保さんが勤務する大和市文化スポーツ部スポーツ課は市役所の中ではなく、大和シルフィードのホームスタジアム・大和なでしこスタジアムがある大和スポーツセンターの一角にあります。大和駅前の広場は「大和なでしこ広場」と命名され「なでしこの道」は市民の散歩道になっています。サッカーファンは、大和駅から大和なでしこスタジアムまで歩くたびに大和市と女子サッカーの関係の深さを感じます。それにしても、なぜ大和市は「女子サッカーのまち」を掲げることになったのでしょう。今回は神奈川県大和市を訪ね、大和シルフィードの誕生と市民の関わりについてお話をうかがいました。
大和駅前の街並み
私たちが立ち上げた大和シルフィードが、大和市のスポーツ文化を変えた
川澄守弘さん
大和シルフィードの誕生を説明する前に、今は、大和市を離れた二人の選手を紹介しておく必要があります。川澄奈穂美選手(NJ/NY ゴッサムFC)と上尾野辺めぐみ選手(新潟L)です。世界で戦い、FIFA女子ワールドカップドイツ2011の優勝メンバーとなった二人は大和シルフィードの一期生なのです。
時計の針を1980年代末に戻します......大和市内の小学生年代のサッカーチームでプレーしていた川澄選手、上尾野辺選手をはじめとするチームメイトは中学校に進学するとプレーする場を失うことが分かりました。近隣に女子がプレーできる中学生のチームがなかったからです。そこで保護者が相談し準備を進め、1998年に中学生年代のチームとして大和シルフィードを立ち上げました。その保護者の一人が、今回、訪問した川澄守弘さんです。川澄さんの娘さんが川澄奈穂美選手です。
川澄守弘さん (※撮影時にマスクを取りました。)
「最初は準備会の議長をやっていました。そのうち育成会という保護者組織を作ることになり、初年度から6年間、育成会の会長をさせていただきました。チームの理念や方向性は理事長が定め、指導するのは監督・コーチ。育成会はお金を出すけれど口は出さない。三者の三角形を崩さないようにやってきました」
ゼロから始まり手作りで運営を始めた大和シルフィードは、2021プレナスなでしこリーグ1部を戦っています。
「大和シルフィードは『この街の誇り』だと川澄さんは言います。大和シルフィードによって、大和市内の女子サッカーのプレー環境が変わっていったのです。
「初年度から監督をやってくれた佐藤浩二さんは本職が中学校の先生です。ですから、サッカーの指導はもちろんですが『勉強もきちんとしよう』『挨拶もきちんとしよう』と生活指導もしてくださりました。そのこともあって、中学校を卒業して高校に進学してからも(学業と両立して)サッカーを続ける選手が多かったですね。大和高校に進学した大和シルフィードの選手は男子のサッカー部に入部しました。それがきっかけになって、その後、大和高校には女子サッカー部ができました」
川澄奈穂美選手の手形モニュメント
2013年に大和市は、大和市ゆかりの女子サッカー選手の功績をたたえ「大和なでしこ広場命名式」「手形モニュメント除幕式」合同式典を開催。2,000人の市民が集まりました。現在「大和なでしこ広場」には、大和市ゆかりの川澄奈穂美選手、上尾野辺めぐみ選手、大野忍さん(現・大宮Vコーチ)、小野寺志保さんの手形モニュメントが設置されています。川澄さんは、この式典にゲストとして参加しました。
「たくさん市民が来てくださって喜んでもらえたので本当に良かったと思います」
川澄さんたちが立ち上げた大和シルフィードがルーツとなって、大和市は、今、女子サッカーのまちを目指しています。大和市が主催する「大和なでしこサッカーフェスティバル」には川澄奈穂美選手が参加・協力。先人の想いは、今も大和シルフィードで引き継がれています。
川澄選手、上尾野辺選手と一緒にプレーした母、今は大和シルフィードでプレーする娘
山中彩子さん
山中彩子さんは、中学生のときに大和シルフィードでプレーしていました。今は二児の母。娘さんは大和シルフィードのアカデミーでプレーしています。山中さんが女子サッカーを始めたのは小学生のとき。きっかけは「従兄弟が川澄選手の友達だったから」だそうです。山中さんは川澄選手の一学年下になります。
山中彩子さん (※撮影時にマスクを取りました。)
なぜ女子サッカーを続けたのか質問してみると、こんな答えが返ってきました。
「チームにいろいろな学年の選手が混在し、お姉さんたちもいるコミュニティーが楽しかったのだと思います。サッカーが好きだったわけではなかった気がする。学校で嫌なことがあっても、サッカーをしに行けば、チームメイトは学校のことを知らないから楽しかった」
山中さんは、今でも当時のチームメイトに会うと「彩子!」と呼ばれ、当時と変わらない感覚に戻って会話するそうです。
当時の川澄奈穂美選手、上尾野辺めぐみ選手は、どのような中学生だったのでしょうか。
「奈穂は『厚かましくないリーダー』みたいな感じ。キャプテンは別の子だと思うのですが、なんとなく奈穂がキャプテン風でした。めぐは真逆。あまり喋らないけどとても優しいイメージかな。こちらが喋るとニコニコして聞いてくれる。それが結構心地よかったりしました」
大和シルフィード一期生 前列右から3番目が川澄奈穂美選手、二番目が上尾野辺めぐみ選手 提供:大和シルフィード
娘さんが大和シルフィードに入るきっかけは、山中さんのお父さん(娘さんのお爺さん)だったそうです。
「上の子が小学校1年生のときに、お父さんがいきなり『彩子入れておいたから』みたいに言われました(笑)。『お父さんが部費を払うから』と言われて、じゃあお世話になるか......みたいな感じでした」
実は、山中さん自身、どのように女子サッカーを始めたのかについては記憶がないそうです。自分で「やりたい」と言ったのかも覚えていない。サッカーが大好きなお父さんの勧めで、いつの間にか始めていたのかもしれません。
山中さんが大和シルフィードへの気持ちを表現すると、そこには「感謝しかない」そうです。「クラブの活動を続けていくのは大変だけど......ありがとう」
現在も、大和シルフィードには山中さんと一緒にプレーしていた選手がいます。堀良江選手です。もしかすると、数年後に、娘さんと一緒にプレーしているかもしれません。
「よっちゃん、もうちょっと(長く)頑張ってほしいな(笑)」それが、山中さんからのメッセージでした。
大和市から第二の川澄奈穂美選手登場を夢見る
株式会社TM 平田葬祭 代表取締役 平田俊博さん
平田葬祭は葬儀社。大和シルフィードのトップパートナーです。
「川澄(守弘)さんとは、トップパートナーになってからご挨拶しました。川澄さんからは『応援してくれてありがとうございます』と言っていただきました。喋り方がソフトで凄く優しかったですよ」という平田俊博さんは株式会社TM 平田葬祭の代表取締役です。大和シルフィードがチャレンジリーグに昇格した際に「スポンサー募集」の告知を目にし、自ら大和シルフィードに連絡したそうです。
株式会社TM 平田葬祭 代表取締役 平田俊博さん(左)、大和シルフィード広報担当/U-15監督 竹村麗さん(右) (※撮影時にマスクを取りました。)
「例えばテレビを買う、家を買うとなれば、買った後のご家族に喜びがあります。でも、お葬式は喜びのために使うお金じゃない......だから、お預かりしたお金の一部を必ず何かに役立てたいと思っていました」
平田さんは、泥だらけでボール蹴っている選手の姿を見てトップパートナーになることを決めました。
大和市でビジネスを展開する平田さんは、大和シルフィードの存在意義を強く感じます。
「大和市には有名なものがあるわけでなく観光地でもありません。プロスポーツもありません。でも、ここで育った川澄選手、上尾野辺選手らが現役で活躍している。オリンピックに出場した小野寺さんもいる。大和市の財産です。小野寺さんや川澄選手、上尾野辺選手のような著名な方の力を借りて、大和シルフィードが大きくなっていければと思いますね。弊社のような小さな企業がトップパートナーをやらせてもらっているのはありがたいことです。いつか川澄選手が大和シルフィードに戻ってきてくれるんじゃないか......僕の夢です」
女子サッカー選手は、よく「ファンとの距離が近い」と言われます。しかし、平田さんは「親近感も大事だが憧れや目標になってほしい」と言います。
「最初は『頑張ってね!』と、こちらから声をかけていた選手が、だんだんと遠くに離れていき『憧れだね』『あの選手みたいになりたいな』と目標になる。少し遠い存在になっていったその選手から、逆に『こんにちは!』と声をかけてもらえば嬉しいじゃないですか。そういうステップを踏んで、いつの日か大和シルフィードからなでしこジャパン(日本女子代表)の選手が出てくれれば最高ですね」
平田さんが登場を待ち焦がれているのは、大和市から第二の川澄奈穂美選手の誕生です。その日を夢見て、大和シルフィードを応援します。
大和市には、誰にでも分かりやすい「女子サッカーのまち」という顔があり、誰もが歴史を振り返ることができます。そして未来を語れます。大和市は、女子サッカーが身近で幸せな街でした。
今回は大和シルフィードのホームタウン・神奈川県大和市の皆さんを訪ねました。
Text by 石井和裕